私はかつて、登山の必携アイテムとして自作のハッカ油スプレーを絶大に信頼していました。山歩きの際、首筋や帽子にたっぷりと吹き付ければ、どんな虫も寄ってこない魔法の薬だと信じ込んでいたのです。しかし、あの初秋の北アルプスでの出来事が、その過信を根底から打ち砕きました。標高を上げ、日当たりの良い尾根道を歩いていた時のことです。汗をかいた肌が火照ってきたため、私は立ち止まってハッカ油スプレーを景気よく全身に纏いました。周囲に爽やかなミントの香りが広がり、火照った肌が冷やされる感覚に、私は至福の時を感じていました。ところが、再び歩き始めて数分後、背後から重低音のような羽音が近づいてきたのです。振り返ると、そこには大きなキイロスズメバチが滞空していました。最初は追い払えば済むだろうと軽く考えていましたが、ハチは私の顔の周りを執拗に旋回し、私が動く方向に先回りしてくるような動きを見せました。恐怖で心臓が跳ね上がりましたが、私は「自分にはハッカ油がついているから刺されないはずだ」と言い聞かせ、無視して歩き続けました。しかし、これが大きな間違いでした。ハチは去るどころか、どこからかもう一匹現れ、二匹で私を挟み込むようにして付きまとい始めたのです。ハッカの匂いが強すぎてハチが興奮しているのだと気づいたのは、ハチが一匹、私のザックに体当たりをしてきた瞬間でした。スズメバチ特有の「カチカチ」という顎を鳴らす威嚇音が、ハッカの香りの向こうから鮮明に聞こえてきました。私はパニックになりかけましたが、以前学んだ「走ってはいけない」というルールを死守し、ゆっくりと、しかし確実にハチから遠ざかるように後退しました。ハチたちは五分以上も私を追尾し続け、私がようやく開けた場所から深い森の影へと逃げ込み、匂いが風で薄まった頃に、ようやく追及を諦めてくれました。あの時の、背中に張り付くような死の恐怖は、今思い出しても身震いがします。下山後、山小屋のスタッフに話をすると、「この時期にハッカ油を使いすぎるのは自殺行為だよ。ハチの神経を逆なでするだけだ」と諭されました。私は自分の無知が招いた危機を深く反省しました。ハッカ油は、蚊やコバエには有効かもしれませんが、スズメバチという森の王者を相手にするには、あまりにも無防備で、かつ刺激的な道具だったのです。それ以来、私は山でのハッカ油の使用を最小限に控え、代わりに防虫ネットや白っぽい衣服による物理的な防御を徹底するようになりました。強い匂いで自然を制圧しようとする傲慢さが、野生生物の逆鱗に触れる。あの日のスズメバチの羽音は、私にとって忘れられない自然からの警告文となったのです。